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永遠に1歳半

この季節になると私の心に浮かぶ人がいます。
私の母の弟、つまり私の叔父です。名前は正博(まさひろ)といいました。
12歳違いの弟を母はとても可愛がって、毎日夕方になると背中におぶって鉄橋のそばへ行き列車を見せていたそうです。そうすると叔父はとても喜んだそうです。
そんな叔父は昭和20年6月末に1歳半で亡くなりました。

当時日本はアメリカと戦争の真っ最中でしたが、敗戦は避けられない状況でした。国民全員が戦争に協力しなければならず、女学生(=中学生)だった母は勤労動員といって軍事工場で働かされ、子育て中の祖母も農作業に協力しなければなりませんでした。
当時祖父の仕事の都合で一家は三重県に住んでいましたが、祖父も祖母も元々は東京の出身。祖母はそれまで農作業をした事がなかったので、慣れない畑仕事は大変だったと思います。そしてその最中に悲劇は起きました。

畑仕事をしていた祖母がふと叔父がいない事に気付き、周りにいた人たちに声を掛けましたが見当たりません。仕事を中断し皆で手分けして探すと、誰かが農業用水のため池の淵に男の子の下駄が片方落ちているのを見つけました。 それが叔父の下駄でした。すぐにそばにいたおじいさん達が水草の繁ったため池に腕を突っ込み、沈んでいた叔父を引き上げましたが、助かりませんでした。叔父は水を飲んでいなかったので、水に落ちた瞬間心臓が止まったのだろうという事でした。

この時母は学年全員で軍事工場の寮に入っていたので、家からの連絡で学校から許可をもらい、一時帰宅しました。その時の気持ちをあまり母は話しませんが、母が叔父の話をする時は必ず、「正博が私を守ってくれている」と言います。そう思う事が心の支えになっている様です。
祖父母から叔父の話を聞いた覚えはあまりありませんが、私が子供の頃、お墓参りに連れて行かれた事があります。二人の女の子の後12年経って授かった一人息子を亡くした祖父母の悲しみを想像すると胸が痛くなります。

「正博が死んだのは戦争のせいだ」と母は言います。「あと2カ月早く戦争が終わっていれば、おかあさんが慣れない農作業で子供から目を離す事もなかったのに。」と。
ソ連軍に追われて満州を逃げまどった方々や、広島と長崎の被爆者の方々も、きっと同じ事を思っているのでしょう。いくら死がありふれた時代でも、一つ一つの死の蔭では多くの人が悲しんだり傷ついたりしたのですから。
正博おじさんは生きていれば今年66歳。会ってみたかったです。
そして私達の子供の世代の為にも、二度と死がありふれた時代を招いてはいけないと思います。

明日、8月15日は64回目の終戦記念日です。
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