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オンリーワンを求めて (「ゴロウ・デラックス」 2/23)

オープニング。
「今夜は映画を撮り続けて半世紀以上、現在も第一線で活躍し続けて映画界に様々な影響を与えた伝説的なゲストです。」(外山さん)
「貴重なお話を沢山聞かせて頂きたい。大ファンなんで。ゴロウ・デラックスやってて良かったよ。」(吾郎)
吾郎にそこまで言わせる伝説的なゲストさんとは?

「さあ、早速お呼びしましょう。映画作家の大林宣彦さんです。」
外山さんに呼ばれゆっくりと入っていらした大林宣彦監督は
「やあ吾郎ちゃん、ようやく会えたね。」と両手を広げて吾郎をハグしてくださいました。吾郎も少し屈んで「ようやく会えましたね…。」と抱きしめ返しました。とても温かい雰囲気です。
映画作家の大林宣彦さん、80歳。生まれ故郷の尾道を舞台にした「転校生」「時を駈ける少女」「さびしんぼう」の3作は「尾道三部作」と呼ばれ日本映画史に残る名作と言われています。更に今年1月には映画「花筺/HANAGATAMI」で第72回毎日映画コンクール日本映画大賞を受賞しました。
しかしその撮影開始前日にステージ4の肺がんが見つかり、余命半年の宣告を受けたのです。一昨年8月のことでした。
今回は大林監督の77年にわたる壮絶な映画人生を振り返ります。

「日本映画大賞受賞おめでとうございます。」と吾郎と外山さんがお祝いのご挨拶をすると
「有難うございます。吾郎ちゃんがまたいい映画評を書いてくれて…」と大林監督。
「はっ?!」吾郎は目をまん丸くしました。
「拝読しました。とても立派な素晴らしい、ええ。」大林監督は「an・an」の「シネマ・ナビ」を読んで下さったのですね。
「ありがとうございます。いや、嬉しい…!」吾郎は深々と頭を下げました。そして
「そうなんですよ。僕も『花筺』を拝見させて頂いてすごくこの映画に感動しました。体感型映画というか、自分も登場人物の一人になってその時代を生きさせてくれる、共存させてくれる…」と夢中になって語り始めると
「今度映画出て。」と大林監督が手を差し伸べました。吾郎はその手をしっかりと握リ返しながら
「ありがとうございます。決まりましたよ!」とカメラ目線で言いました。
「こういう人でなきゃうちの映画はやれないの。」(大林監督)

課題図書 : 「大林宣彦の体験的仕事論」 大林宣彦・語り 中川右介・構成

大林監督の映像に捧げた人生を振り返り、その仕事論、哲学を余すところなく語った本です。
その中から、映画を志したきっかけについての部分を吾郎が朗読。

僕が子どもだった頃には、日本はまだ戦争をしていました。
当時の日本人が「大東亜戦争」と呼んでいた、すなわち今でいうあの太平洋戦争を体験し、日本が敗けたことで「敗戦少年」となって育った僕らの世代には、それからの日本では「平和を作る」ことが一番の目標となったのです。
でも、「平和を作る」方法を学べるところなんてないんですよ。
大人たちはそれまでずうっと戦争をしてきたんですから。
そこで「とにかく大人たちの真似はしないで今まで誰もやらなかったことをやろう」ということだけを、僕は自分が二十歳になったときに、まず決めたんです。

「こういう時代だったんですね。」と吾郎はしみじみと言いました。

大林監督は1938年、代々続く医者の家に生まれました。なんと3歳の時には既に、自宅の納屋にあった映写機を使って遊んでいたそうです。
「我が家の蔵は宝物の箱だったんです、子供の私にとっては。その中で見つけたのが映写機で。」(大林監督)
「運命ですね。映画の申し子というか。」(吾郎)
「フィルムを探してきて、この動きとこの動きと、この人物とこの人物を繋いだら、こんな物語が出来ると自分で物語を作ったり。例えば当時ののらくろという主人公がポンと手を出したところでポパイという主人公がポンと転ぶと、全く別の物語の主人公なのに共演しちゃうわけだ。そのうち、そのフィルムが父親のライカのキャメラのフィルムと同じだということが分かって、父親が残してくれたキャメラを持ち出して今度は一コマずつ映して…私が丹下左膳か何かに扮して一コマずつ撮影して、それを現像してもらって映写機で映すと、私が映ってるんですよ。」(大林監督)
「色々考えて!」(外山さん)「3歳4歳5歳の時に!」(吾郎)
「私のユニークなところはね、映画館で観る前に作っていたの。」(大林監督)
「映画館で観る前に映画を作った人って多分世界に誰もいない。」(吾郎)
「天才少年です。」(外山さん)まさに!

1960年(22歳)
映画に魅了された大林監督は大学在学中から自主映画の製作を始め、1963年、自主映画がベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞を受賞。その作品「喰べた人」はレストランで料理を食べ続ける客が包帯を吐き出し、最後には包帯だらけになってしまうという実験的な内容でした。

1964年(26歳)
アマチュア映画監督として注目を集めた大林監督は広告会社のオファーを受け、CMディレクターの仕事を始めました。1970年にはあのチャールズ・ブロンソンを起用した「マンダム」のCMを制作。(みうらじゅんさん、田口トモロヲさんゲスト回の時、このCMの話題で盛り上がりましたね!)約2000本のCMを手掛けたそうです。

1977年(39歳)
CM業界で活躍していた大林監督は初の商業映画「HOUSE」の監督に抜擢されます。映画監督デビュー作は大ヒットしましたが、ここに至るまでには様々な障害があったそうです。
「映画監督という職業はなかったんです。黒澤明さんは『東宝株式会社 監督部』の職員。小津安二郎さんは『松竹の監督部』であり…だからフリーの映画監督はないわけですよ。」(大林監督)
「今だったら普通ですよね。」(吾郎)
なぜ大林監督がフリーにこだわったのか、その理由を語った部分を吾郎が朗読。

映画は好きだけど、「映画の会社に入ろう」などとは思わなかった。
その頃まだたくさんあった映画会社はそれぞれに新入社員の公募をしていたでしょうが、入社試験を受けて合格するのは東大や京大や早稲田大学などの有名校を出たエリートたちばかり。
つまり、まだまだ既成の権威の許にある。
だから映画会社の入社試験を受けるという発想は、僕にはもともとない。
僕はそういう既成の権威の枠組みの中に入るための学校の勉強は、なんだか不自由で好きじゃなかったですから。
むしろ、東京に出るときに父親からもらった8ミリ映画のキャメラがあったので、これで自由に、新しい時代の映画を作ってみようと思ったんです。

大林監督は吾郎の朗読を微笑みながら静かに聞いていましたが、「HOUSE」の制作には更に障害があったそうです。それはこの企画が

「女子高生が人食い屋敷に殺されるホラー映画」

だったから。格調高い映画が良いとされていた時代にはそぐわない内容だったのです。
逆風の中、この企画にGoを出したのは、当時の東宝副社長の松岡功さん。あの松岡修造さんのお父様です。
「『こんな無内容な馬鹿馬鹿しい脚本を読んだのは私も初めてです。しかし私が納得して私が薦める映画はもう誰も観てくれません。だからどうか大林さんが信じる、私から見れば馬鹿馬鹿しい無内容な映画をそのまま作ってください。』というオーダーだったんです。」(大林監督)
「馬鹿馬鹿しい、って言われてたんですね。」(吾郎)
「それを決定したのが松岡さんの素晴らしいところで、『こういう人が作る映画を私は観てみたい』と。」(大林監督)
ここで「HOUSE」の映像が少し流れましたが、少女たちが燃え上がったり、ピアノやタンスに食べられたりして血がシャワーのように飛び散る強烈なものです。吾郎はそれを観て「面白い!」と声を上げました。
「こんな表現は失礼かも知れませんが、ぶっ飛んでるというかさ…。あの映像を見たら忘れないよ、頭にこびりついてさ。これは大ヒットしたのに批判もされたんですか?」
「だから僕の同年配の人達には評判悪かったんです。一方で映画館の館主さんから電話をどんどんもらって『満員です!大林さん!でも…お客さんみんな15歳以下なんです』と。でもその世代の映画監督が今日本映画の真ん中にいる…岩井俊二くんとか塚本晋也くん、手塚眞くん…そういう人達がこの「HOUSE」から育ってきたんですよね。」(大林監督)

1982年(44歳)
大林監督は「転校生」を発表、大ヒットとなりました。神社の階段から落ちて高校生の男子と女子の心が入れ替わってしまう事から起こる騒動を描いた作品で、監督の代表作「尾道三部作」の一作目です。(因みにヒロインの女子高生を演じたのは前回ゲストの小林聡美さんですね。)しかし…
「これも撮影中は随分追い込まれたそうですね。」(吾郎)
「一見お行儀の悪い映画ですから、決まっていたスポンサーさんが直前に降りられましてね。普通のプロの映画監督だったらそこで終わるんですよ。でも僕はアマチュアで映画を作ることで生きている人間ですから、お金がなくても映画を作るぞ、と。勿論全部自分で出せるほどのお金はなかったけれども、幸いなことにウチのパートナーが高度経済成長期に頂いたギャラは全部貯金しておいてくれましたので、恭子さん(奥様)が映画1本作るために、多い時は4~5000万少ない時でも1~2000万は足りないので、それをウチから放出して映画が出来ていった。80歳近くになって老老介護しながら、『俺たち映画で食べたことはなかったねぇ』『そうね、使うだけだったわねぇ。でも映画が残っていい人達と出会えて、いろんな思い出が出来ていい人生だったね、自由に映画を作り続けてきて。』と。」(大林監督)
自分が信じる映画のためなら自身のお金を使ってでも撮り切る。そのアマチュア精神を貫いた結果、日本映画大賞に輝いたのですね。

2017年(79歳)
大林監督の集大成とも言える「花筺/HANAGATAMI」。原作は檀一雄の短篇小説で、戦争時代に生きる若者たちの青春群像劇です。しかし一昨年8月、撮影開始前日に肺がんステージ4である事が発覚、余命半年と宣告されました。監督はこの事実を公表した上で、投薬治療をしながら撮影を続行。そこには強い思いがありました。
「一昨年の8月25日から撮影を始める予定で、その前日の24日午後6時からスタッフが集まってミーティングをやろう、と。その2時間前に肺がん第4ステージ、余命半年と宣告を受けたんです。面白いでしょう?」(大林監督)
「ああ、そんなこと…。こんな事言って良いのか分からないですけど、そんなことあるんですかね?それこそ映画のシナリオみたいじゃないですか。」(吾郎)
「あるんですねえ。まさに『そういうことがあるんですね』ということが映画になるんですよね。」(大林監督)
「これから撮ろうという時に告知をされて…」(外山さん)
「しかも本来ならば、ガンにかかったと言うと『もうだめだ、どうしよう映画も作れない』と思うんだけど、何にも思わなかった。なんだか体がフワッと温かくなって嬉しくなっちゃって。」(大林監督)「え?」(外山さん)
(普通そんな宣告を受けたら全身から血の気が引いて冷えてしまうと思いますが…)
「それにはやっぱり訳があるんです。40年前なんですよ、この「花筺/HANAGATAMI」を作ろうと思ったのは。」(大林監督)
「そうですね。僕もそこに一番感動しました。40年間ずっとその思いを秘めながら。」(吾郎)
「40年前に原作者の檀一雄さんにお会いした時に、檀さんが肺がん第4ステージで、口述筆記で生涯の代表作の「火宅の人」をお書きになっていた。そこと繋がっちゃったんですよ。」(大林監督)
「なるほどね…」(吾郎)
「じゃあひょっとすると、この平和ボケの時代に生きた僕たちにも、戦争中を生きた方たちの断念や覚悟や痛みが少しは理解できて描けるんじゃないか。ああ良かった、同じ肺がんになって、と。」(大林監督)
「それで体が温かくなった、と。」(吾郎)
「そうなんです。それがこの映画の正体でね。」(大林監督)
余命宣告でさえ映画を作るためにはプラスだと捉えられる。本当に映画の申し子なのですね。

2018年(80歳)
そして今、大林監督が伝えたい事とは…。
「”オンリーワン”という言葉は吾郎ちゃんたちが定着させた言葉ですけれども…」(大林監督)
「いえいえ」吾郎はちょっと緊張の面持ちになりました。
「ある政治家が映画に関心を持ち始めまして、こういうことを言っていますよ。
『政治も経済もNo.1を願うから、No.2をやっつければ自分が世界でNo.1で平和だと思う。だから戦争は終わらない。いつまでもNo.1になろうと思ってる。だけどゴッホとピカソは喧嘩しませんね。モネとマチスもお互いが違いを面白がって違いをこそ認め合って許し合って、違いを理解してお互いが一緒に育とうとしている。これは平和ですよね。No.1じゃなくてオンリーワンになれば平和になるから、政治経済はどうしてもNo.1を願うけど、芸術表現というのはオンリーワンの世界だから、これからは政治経済、芸術表現が三位一体となって世の中を作っていけばひょっとすると平和な時代を僕たちは作れるかも知れません。』」
「いやぁ…僕は今日お話を伺えて、今このタイミングでこの歳で…去年いろんな事があって、今こうやって大林監督の貴重なお話を伺えたのがこのタイミングですごい良かったです。今までも本当にお会いしたい監督だったんですけれども…僕も映画の大ファンですし…でも今初めてお会いできたことにすごい意味があるのかなと思いましたし。」(吾郎)
「結びついていくのが僕たちの仕事で、世界中が結びつけばそれこそ平和になる。」
と大林監督と吾郎がしみじみと語り合っているところへAD山田くんが登場。
披露した消しゴムはんこはアフロヘアの監督の頭に家が乗っているデザインです。「HOUSE」の頃の大林監督のイメージですね。それを見た監督は
「消しゴムは(書いたものを)消す物だけど、決して消えない物を消しゴムで作るのがいいね。」
とおっしゃいました。
最後まで一言一言が温かかったです。

一つ一つの言葉をゆっくりと相手に伝えようと話してくださった大林監督。吾郎に「映画に出て」をおっしゃってくださったのが嬉しかったです。是非実現しますように願ってやみません。


拍手ありがとうございます
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