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稲垣吾郎さんとSMAPと新しい地図と。すべてが好きな主婦の日記 【無断転載禁止】

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2017-08-21 (Mon)  23:14

三島由紀夫~死ぬために生き死ぬために書いた天才 (「ゴロウ・デラックス」 8/18)

オープニング。
「今日は日本を代表する文豪の素顔に迫る特別企画です。解説者はこの番組でお馴染みのあの方です。」(外山さん)
「この企画にふさわしい方ですね。」(吾郎)
今回は本当に見応えがありました。

今年1月TBS局内で発見された1本のテープが今回の本の始まりでした。それは作家・三島由紀夫の未公開インタビューテープ。そして注目すべきは録音されたのが1970年2月だということ。というのもその9か月後の1970年11月に三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地に立てこもり割腹自殺を遂げたのです(いわゆる三島事件)。死の7カ月前のインタビューで、三島は何を語ったのか?
「最初はこの声が三島由紀夫の声かどうか分からなかったんですが、いろいろ検証した結果、三島由紀夫の声だと分かったんです。今日はその謎に包まれたテープをお借りしてきました。」(外山さん)
「本当ですか?TBSだけに?TBSで発見されたから?使えるみたいな?じゃゴロウ・デラックスで?」と吾郎。「はい!」と元気よく返事する外山さんは少し自慢げです。そこへ手袋をはめたAD山田くんが慎重にテープを持ってきました。

課題図書 : 「告白 三島由紀夫未公開インタビュー」 三島由紀夫

そしてこの本を解説してくださるのはゴロデラではお馴染み、「ヒタメン 三島由紀夫若き日の恋」の著者岩下尚史さん。久しぶりの登場なのでもしかしたら外山さんは初めましてかも知れません。今日は真っ白なスーツ姿で登場しました。
先日この音源を聞いたという岩下さん。三島由紀夫が亡くなってから戯曲も小説も評論もインタビューも決定版の全集に入っているのでそれで全部だと思っていたら、こういう新しいものが発見され、しかも”9か月後の思い”を素直に話していたので「非常に貴重」なものだとおっしゃいます。
「早く聞きたいですね。」吾郎がデッキにテープを入れて再生ボタンを押すと、三島由紀夫の声が流れてきました。
凛とした涼やかな声です。
「これはどういう状況でなされたんですか?」(吾郎)
「(晩年の代表作)『豊饒の海』四部作のうちの第三部『暁の寺』を書きあげた翌日にインタビューを受けたんですね。」(岩下さん)
三島が自決したのは、最終部の『天人五衰』を書きあげた翌日だったそうです。
「この時から自決を決意していたんですか?」(吾郎)
「と思います。私が『ヒタメン』を書いた時に取材した三島由紀夫の親友だった湯浅あつ子さんに伺ったんですが、このインタビューの何か月か前に国立劇場で『椿説弓張月』という歌舞伎を三島由紀夫が作演出しておりましてね、湯浅さんがその芝居を見に行った時にロビーで偶然会ったんですって。『またこういう歌舞伎を書くの?』と湯浅さんが訊いたら『いや、もう時間がないんだ。今ライフワークに取りかかってるから。これを書き上げたら僕は遠い所に行っちゃうからね。』と言ったそうなんです。ま、湯浅さんの証言を本当だと思えば、既にこの時には、『天人五衰』を書き上げたら…そう腹に決めてたと思います。」(岩下さん)
へえ…と吾郎は圧倒された様子です。
「自分は45歳で死ぬことは若い時から周りの人には言ってたそうです。」(岩下さん)
「45なんだ…。僕来年ですよ。」(吾郎)
「はい、随筆にも書いてます。『女は35歳まで、男は45歳まで』というのが三島の若いころからの思いだったんです。」(岩下さん)
「武士みたいだね。生きながらにして死に方を探してるみたいな。武士道精神に似ているんですよね。」(吾郎)
「そう、美学でしょうね、本人の。つまり、自分は天才だから天才と美に仕えなきゃならないという一生でしょうね。」(岩下さん)

「45歳で死ぬ」という美学はどこから生まれたのでしょうか。ここで年表のパネルを見ながら三島の生涯を振り返ります。
1925年東京都新宿区生まれ、本名は平岡公威(きみたけ)。父も祖父も官僚という厳格な家庭に育ちました。幼少期から天性の文才を発揮。その事について三島はインタビューの中でも語っていました。
「身体が弱くて本しか読めなかった。みんなが外で遊んでいる時に本を読んでいたからませていた。空想的な子供だったので、綴り方(作文)に全然現実の事を書かない。(中略)初めから夢みたいなことを書く。『自分が船のマストに上っていって空に蝶々が飛んでいて、それを追っていったら自分の体が空に浮かんで…』なんて話を書いてしまう。学校の先生は一番悪い点をつけるんです。そんな話は本当にはないと言って。」(要約)
更にそれを補足するように、岩下さんが「告白」にも収録されている三島の晩年の随筆「太陽と鉄」から朗読。

私にとっては、まず言葉が訪れて、ずっとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れた。


「普通は肉体の方が先にあるのに、三島由紀夫の場合は先に言葉があった。」(岩下さん)
「そこから生まれてきた…。」(吾郎)「そういう環境でもあったし生まれながらの力もあった。」(岩下さん)
吾郎も外山さんも息を飲んで岩下さんの話を聞いています。
(ちなみに「先に言葉があった。」というのは聖書(マタイによる福音書)の一節でもあります。)
しかし
「ただ喜んではいないですよね、本人は。それが後々の事になっていく。言葉だけではいけないんだって思ってた。」(岩下さん)
1941年、16歳で処女作「花ざかりの森」を執筆。1944年、学習院高等科を首席で卒業し東京帝国大学法学部へ入学。1947年大蔵省へ入省するもわずか1年足らずで退職、小説家への道へ進みました(この時点でもうかなり生き急いでいる感じがしますが…)。
1949年(24歳)初の書き下ろし長編「仮面の告白」が大ヒット。以降、「金閣寺」「永すぎた春」「美徳のよろめき」などの小説を次々を発表していきました。
「ちなみに『潮騒』(1954年)ってありますよね。5回映画化されているんです。」(外山さん)
「この辺はみんな名前は聞いた事があるもんね、確かにね。」(吾郎)
「一番有名な作品が並んでますね。20代後半から30代の4、5年が凄い。三島由紀夫の中で一番本が売れた時期です。『潮騒』は作品が少し変わった時期じゃないかな。」(岩下さん)
「なんか世界一周でギリシャかなんかに行かれて書かれた、とインタビューにありますね。」(吾郎)
「そう、それまでは夜の世界だった。」(岩下さん)
1952年、三島は当時の日本人はほとんどしなかった世界一周旅行へ出かけ、その時ギリシャで出会ったエーゲ海の太陽と彫刻の体の美しさに心を奪われたそうです。その感動が「潮騒」を生み、同時に彼の大きな転機になりました。
「どういう転機になったんですか?」(吾郎)
「それまでの日本の小説家は夜の世界で知性ばかりだったでしょう?ギリシャに行って遺跡の対称などの『外形の美しさ』に目が開いて、あまり知性に偏るよりも、という思いが…元々持ってたらしいんだけど、(この頃から)だんだん形になって出てきた。」(岩下さん)
「それでだんだん身体も改造するように…。」(外山さん)
1955年、30歳で三島はボディビルを始めます。肉体改造を始めた頃(31歳)と肉体改造後(45歳)の写真を比べると「体だけ違う人みたい。」(外山さん)
「少年時代はひ弱で虚弱体質だったでしょ。自己改造ですね。それを本人は『人生の重い扉を一つずつ開けてきた』を20代の終わり頃に書いていますけど。」(岩下さん)
「自己改造…」(吾郎)「運命を変えていくという事ですよ。」岩下さんは吾郎を見て頷きました。
(「自己改造」は三島由紀夫の生涯で重要なキーワードの様です。)
自分自身を変えた三島は文体や作風も変化させていきますが、皮肉なことに本の売り上げは落ちてしまいました。
「その後の作品は評価が低いという事ですか?」(吾郎)
「いや、売れなかったということ。売れないとやっぱり…職業作家ですからねぇ…。ただ「午後の曳航」なんか良いですよ。吾郎さん泣きますよ、40過ぎたら。」(岩下さん)
「ほんとですか?」(吾郎)「切実よ。」岩下さんが身を乗り出したので
「そ、そんなに言われたら…。」と思わず吾郎はうろたえました。
「吾郎さん独り者ですよね?あんた夜帰ったら家で泣いてるでしょ?」(岩下さん)
「はい。」(吾郎)(←泣いてるんかい!)
「砂を嚙む様ですよね、40過ぎたら。」(岩下さん)
「40過ぎて独りだったら、夜家に帰ったら泣いてます。」(吾郎)「え―?!(笑)」(外山さん)
「私なんか16年泣いてるんだから。」岩下さんはお得意のユーモアで場を和ませました。

未公開音源では、三島由紀夫が自分の死生観を語った部分もあります。そこで三島は、肉体が弱かった頃は死は自分の外にあったが、自分の肉体が出来たら死が自分の中に入ってきた、という趣旨の事を言っています。
「死が自分の中に入ってきた」とはどういうことなのか。晩年の随筆「太陽と鉄」の一節を吾郎が朗読。

私の死への浪漫的衝動が実現の機会を持たなかったのは、実に簡単な理由、つまり肉体的条件が不備の為だったと信じていた。浪漫主義的な悲壮な死の為には強い彫刻的な筋肉が必須のものであり、もし柔弱な贅肉が死に直面するならば、そこには滑稽なそぐわなさがあるばかりだと思われた。
十八歳のとき私は夭折に憧れながら、自分が夭折にふさわしくないことを感じていた。
なぜなら私はドラマティックな死にふさわしい筋肉を欠いていたからである。


「死と言っても普通の死じゃなくて、浪漫主義的な悲壮の死ですからね。華々しく自分の思い、悲劇に準じて死ぬということですから。その為にはガリガリだったり贅肉があったりしちゃ資格がない、と。筋肉がないと行動できない。それが文士で文字だけ書いていては分からないんです。三島由紀夫はそれを分かる、感じる為に修行して、「太陽と鉄」を書いた時には、ようやくこれで俺も悲壮な死が遂げられる、と思ったんですね。」(岩下さん)
「自分の中では完璧に納得が出来てる?」(外山さん)
「うん、出来てる。だからそういう準備を、小説と共に楯の会も組んで、着々とやっていたわけですからね。」(岩下さん)
「うーん…でも、それが全てなんですね、生まれた時からの。じゃなかったらこれ全部ない、この小説も。死にこだわってなかったら。」と吾郎が年表を見ながら言うと
「そうそう。それでどの小説も『死』がテーマですよね。」と岩下三が同意しました。
「どうしましょうか僕たちは。」と吾郎が問いかけると、
「男が年を重ねるのはなかなかキツイ。」岩下さんは眉をしかめました。
「最近僕もちょっと思いますよ…。年取ったらもっと簡単に生きれたり…子供の頃描いていた40代なんて、すべて理解して、悟って、余裕があって、生き方も分かってて、人に優しくて、そう言って生きていけると思ったら、どんどんどんどん幼くなってきちゃう。どんどんどんどん頼りない、自分自身が。」
そう言う吾郎の一言一言に「分かる!」「分かる!」と力強く頷いていた岩下さんは「行動しなきゃダメ。」と言いました。
「ホント最近、ここ一年位ですよ。それは行動すればいいんですか?」(吾郎)(←ここ一年位、ね…色々な事があったから…)
「行動する以外ないですよ。」(岩下さん)
「何ですか行動って。」(吾郎)
「三島由紀夫は勇気を持ってこういう行動をした。だから吾郎さんが勇気を持ってどう行動をするかですよ。」(岩下さん)
吾郎は顎に手を当てて考え込みましたが、
「それ探してくださいよ一緒に。」と言ったので
「何であたしがあんたの行動探すのよ!」と岩下節が炸裂し、吾郎も外山さんも笑いだしました。
「何事も修行、お稽古が大事なの。自己改造。」と岩下さんは厳しい顔で言いましたが、
「いくらあんた、あたしの所へ夜這いしてきて、教えて下さいと言ったって…。」とすぐに大人のユーモアを交えたので、吾郎も外山さんも大笑いして和やかにエンディングとなりました。

生きることも小説を書くことも、自分の理想の死を実現するためだったというのは私の様な凡人には正直理解できませんでした。もし昔の日本のように戦争をしていたら、死が自分の外にあろうと中にあろうと、突然自分の所にやってくるわけで、三島由紀夫が時間をかけて準備し「浪漫主義的な悲壮の死」を遂げられたのは戦争がなく日本が平和だったからだ、と考えるとさらに複雑な気持ちになります。
とにかく、今回は三島由紀夫の肉声を聞きながら吾郎、岩下さん、外山さんが語り合うという、奇跡の様な番組でした。もっともっといろいろな話が聞きたかったです。


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以下、個人的なお知らせです。

ところでこれからしばらくの間、更新が遅くなるかもしれません(今でも亀更新ですが)。目の治療を受けるため、その回復具合に合わせてブログを運営していきますのでどうぞご了承ください。
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最終更新日 : 2017-08-21

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